愛媛県医師会誌原稿
無垢の瞳
十全総合病院脳神経外科
中村 寿
私も医師になって十年目を迎えた。医師会の大ベテランの諸先生方から見ればまだまだ青二才には違いないが、時の流れというのは好むと好まざるとに関わらず自分の年を押し上げて行き、続々と後輩の医者が増えてくる。その結果、自分がオーベンとして後輩を指導しなければならない立場となってくるのである。
経験の乏しい研修医にはオーベンのような上手な患者管理ができない。「未熟な医者が患者の信頼を得て治療を円滑に進めていくためには、少しでも長くベッドサイドで患者に接し、親身になってその訴えに耳を傾けるようにするしかない」と私は思っている。後輩には常々そのように指導しているし、自分自身そのように努めてきたつもりだ。
誰しもそうであろうが、未だ医師としての経験の浅い時期にこの様に一生懸命になって接した患者さんの中には生涯忘れ得ない人が少なからずいると思う。
さて、脳腫瘍というのはことほど多い疾患ではない。さらに小児の脳腫瘍となると症例数はかなり限られてくる。ところが、この様な疾患は集約的治療が必要となるため、大学病院では遭遇する機会が比較的多くなる。私も大学での研修医時代には数人の脳腫瘍の子供を受け持つ機会があった。
かずえちゃんは小学校五年生。脳幹のグリオーマで放射線治療や化学療法のため、数カ月の入退院を繰り返していた。最初の症状は複視がある程度でいたって元気で、小さい頃に交通事故で右下腿に重症を負い尖足であったが、病棟内を駆け回っていた。私は彼女の闘病意欲の助けになればと、「今度学校に行ったときに勉強が遅れて分からなくなってしまったら困るよ」と言って、毎日自分の仕事が一段落してから消灯までの間病室で個人授業をしていた。彼女は目をきらきらさせながら一生懸命勉強していた。三回目の入院の頃には四肢麻痺となっており、上肢がわずかに動くだけ、また球麻痺で発語もままならない状態だった。それでも私が訪室して「がんばろうね」と声をかけると人懐っこい笑顔を見せてくれた。学会出張の折に私が磁石のモザイクをお土産に買って帰り、「手が上手に使えるようになったらこれで遊ぼうね」とプレゼントしたらとても喜んで、後で母親に「弟に見せたら取られるからこっそりしまっておいて」と懇願したという。結局彼女はそれで遊ぶことなく永眠してしまったが、棺にはそのモザイクを入れて頂いたと聞いて目頭を熱くしたのを覚えている。
のぶくんは五歳。小脳髄芽腫による水頭症で入院してきた。先天性の弱視で牛乳瓶の底のような眼鏡をかけていたが、その奥の大きな瞳が透き通るようだった。手術をし、全脳脊髄への放射線照射という五歳児には過酷な治療を弱音を吐かずに頑張って受けた。放射線治療が始まって少し経ち、状態も落ち着いたある日、彼に紙飛行機を折ってあげると大層喜んで、早速廊下で飛ばしていた。それから毎日、紙飛行機を折っては二人で廊下で飛ばして遊んだ。私は本まで買い込んでよく飛ぶ飛行機の研究をしたものだった。彼が退院してから数カ月後、私は松山市内の某病院に勤務していたが、ある日、大学受診の帰りに母親と二人で私を訪ねてきてくれた。「最近背中の痛みを訴えて食事も食べないんです」という母親が持参していたCTで脊髄転移があるのを知った。しかし、私に会いに来てくれた彼は大層ごきげんで、帰りに私が「のぶくん、握手しよう」と言うと、照れながらも握手してくれた。母親が「よかったね。これで元気がでるかもしれんね。」と言っていたが、その日はもりもりと食事を食べたと聞いた。彼はその後十全病院に再入院し、ここで息を引き取った。後日、私は結婚後、妻と二人でのぶくんの霊前に結婚の報告に伺った。妻は大学でのぶくんの担当の看護婦だった。今私が十全病院に勤務し、二人の子供がのぶくんが通った幼稚園に通うようになったことに何かしら運命的なものを感じてしまう。
私の知る限り、脳腫瘍と闘っている子供は皆本当に「いい子」ばかりだ。病魔に臆することなく、澄んだ瞳で私達に微笑みかけてくれる。私は自分の無力さを思い知らされながらも実は彼らに励まされていたのだ。
(1993/6)